トップページに戻る
  少年リスト   映画リスト(邦題順)   映画リスト(国別・原題)  映画リスト(年代順)

The Young Messiah ヤング・メサイア/7歳のイエス

アメリカ映画 (2016)

アダム・グリーヴズ=ニール(Adam Greaves-Neal)が、7歳のキリストを演じるユニークな宗教映画。これまで数多く作られたキリストの映画は、すべて大人になってからのキリスト。少年時代のキリストが、どんなことを考え、何をしたかなんて、聖書のどこにも書いてない(私はキリスト教徒ではないので、映画の製作に携わったクリス・コロンバスのインタビューからの引用)。原作は、アン・ライスが2005年に出版した『Christ the Lord: Out of Egypt(主キリスト/出エジプト記)』。元々、吸血鬼や魔女の登場する小説で知られている作家だが、2005年から始まるキリスト3部作は、一度キリスト教を捨てたアン・ライスが老境に入り信仰に目覚めてから、贖罪を込めて書いたとされている。

映画は、エジプトのアレクサンドリアで義兄と大工を営んでいたヨセフが、息子イエスが巻き込まれたトラブルを避け、かつ、ベルレヘムの幼児虐殺を行ったヘロデ大王が死んだとのお告げを受けて、生まれ故郷の村ナザレへ帰るところから始まる。イエスは、ナザレに着くまでの間に、ヨルダン川で伯父の病気を治すが、その噂が新しい王の耳に入り、王はローマ軍の百人隊長に奇蹟を起こす少年の抹殺を命じる。それを知らずに、ナザレに向かう一家。道の途中には、現体制に反逆しローマ軍によって磔にされた男たちが放置されている。一家が、ナザレの実家に着いた時、反逆者の捜索に来たローマ軍の下級兵士に見つかり、逮捕されそうになるが、実家を守ってきた祖母の機転で無事居住を認められる。しかし、7歳になったイエスには、知りたい疑問が山ほどあり、それに対し、父も母も時機尚早と答えてくれなかった。そこで、エルサレムで開かれている春の「過越の祝い」に行き、主の神殿で直接訊いてみようと、父母を説得する。一家が出発した直後に、情報をつかんだ百人隊長がナザレの実家を急襲、残っていた祖母を脅迫して、イエスという名前の少年が、ベツレヘムの虐殺を唯一逃れた危険人物であるとの確証を得て、追撃に向かう。ローマ軍により息子が報奨金付きで捜索されていることを知った両親は、引き返すことを決断するが、それを漏れ聞いたイエスは一人夜陰にまぎれてエルサレムに向かう。神殿の聖域で盲目のラビに会い、疑問に対する答え、すなわち、自分の誕生のせいでベツレヘムの2歳以下の全男児が虐殺されたことを知る。涙にくれるとともに、感謝を込めてラビの盲目を治癒するイエス。ちょうどそこにローマ軍の百人隊長が現れ、イエスと直接対峙する…

イエスの少年時代について少し調べてみると、4つの福音書のうち『ルカによる福音書』の第2章39に、「両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った」と、ナザレへの帰還について書かれている。また、次の40には、「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」とイエスの成長ぶりを簡単に書いている。この部分は、映画の最後に入るイエス自らの独白に反映されている。次の41と42には、「さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した」とある。映画ではイエスは7歳でエルサレムに行っているので状況は違っているし、46には、「イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」とあり、エルサレム訪問は危険を伴わないものであったことが推測できる。最初にも書いたように、イエスの子供時代についてはこの程度の言及しかされていない。その中で、重厚な物語を紡ぎあげたアン・ライスの力量は大したものだ。アメリカの映画評で、この映画の評価が低いのは、そのゆっくりとした語り口と、淡々とした描写にあると思うが、どの映画もハリウッド式の「息もつかせぬ激しい展開」である必要はない。確かに、監督のサイラス・ナウラステの力量不足は否めないが、誰も見たことがないキリストの少年時代の映像化は、信仰に全く興味がなくても、それだけで興味が持てる。

アダム・グリーヴズ=ニールは、You-tubeのプレミアの時のインタビューと、映画の中の姿はまるで別人のようだ。年齢差はほとんどないと思うが、イメージが全く違っている。そもそも年齢は不詳。まさか7歳ではないが、出演時は10歳くらいか? 如何にも肖像画に見るイエスの少年時代というイメージがぴったりの美少年だ。映画の出演後は、2015.11.19-2016.1.19までロンドンのアルメイダ劇場でイプセンの劇「ちいさなエイヨルフ(Little Eyolf)」に出ていた。下の写真は、エイヨルフ役の3人。左端がアダムだが、巻き毛で長髪、イエス役の時の長髪もカツラではなかったようだ。
  
イエスの義兄役で出ているには、フィン・アイルランド(Finn Ireland)。神の子と一緒に暮らしていては、当然、常時1ランク下の扱いを受けてしまう。可哀想な立場だ。だからイエスを嫌っている。聖書の中の歴史でも、イエスが磔にされた後に復活して信仰に目覚めたとある。あらすじの中に、数枚写真を入れておいた。

最後に、この映画のロケ地は南イタリア各地。エルサレムにはマテラ(Matera)が使われた。この町には昔 行ったことがあるので、映画のシーンに近い角度で撮影した写真を添付しよう。この角度の写真は、ネット上では滅多に出て来ないハズだ(観光バスは行かない)。あらすじの最後の方のエルサレムの俯瞰シーンと比較してみられたい。
  


あらすじ

アレクサンドリアの路地で、イエスは 従妹サロメが路面(土)に描いているラクダを見ている。カメラは、イエスを見上げる角度で映し、逆光で顔が縁取られている様は、神々しさの演出か(1枚目の写真)。その、物静かなイエスの行動をガキ大将のエレアザルが兄弟達と一緒に見ている。その動きに気付いたイエスも、そちらを不安げに見る(2枚目の写真)。父がユダヤの大工として成功を収める中で、エレアザルの父(地元の大工)が仕事をとられていることを知っていたのかもしれない。エレアザルは、イエスに近寄って行くと、「赤ん坊かよ? 女の子と遊ぶなんて」と難癖をつけ、いきなりイエスを路面に押し倒し、体に跨(またが)ると顔を殴りつけ始めた。従兄を助けようと棒で思い切りエレアザルを叩くサロメ。怒ったエレアザルがサロメを追いかける。その有様を見ていた悪霊が食べていたりんごを道に落とすと(3枚目の写真)、それにつまづいたエレアザルは転倒し、頭をぶつけて死んでしまう(4枚目の写真)。体を抱き起こし、「死んでる」と呆然とする兄。その耳に、悪霊が囁きかける。「奴がやった」。その言葉を真に受け、「お前が 殺した」とイエスに詰め寄るエレアザルの兄。イエスには悪霊が見えるので、「その男が、そう言ったんだ」と、悪霊を指差すが、兄にも集まってきた群衆にも悪霊は見えない。「りんごだ。エレアザルはりんごにつまづいた」と言っても、りんごもない。当然、疑いは確信となり、「お前が殺した。みんな見てた」「人殺しだ」と糾弾されることになる。この悪霊は、映画の中で何度も登場し、イエスの邪魔をする。聖書の中で、イエスの悪霊追い出しが語られるのは、少年期の苦い経験に基づいたものかと思わせるような設定だ。 なお、悪魔ではなく悪霊としたのは、配役表で「The Demon」となっていたため。
  
  
  
  

噂を聞いて駆けつけた母マリアに家に連れ戻されるイエス。家では、表の扉を閉めるが、集まった大勢のエジプト人から石を投げつけられる。伯父は、「殺せるはずがない。エレアザルは大きくて暴れ者だぞ。妬みだ、それ以外にない。奴らの仕事を 奪ってきたからな」と言うが、ヨセフは、「子供は 死んだのか?」「本当に 死んだのか?」と心配する。一人、サロメだけは「助けてくれた」とイエスに感謝する。「傷つけてない」と言うイエスに、サロメは、「前にやったように なさいよ」と、かつてイエスが海辺で死んでいた鳥を生き返らせたことを思い出させる。「さあ、行って」「黙ってるから」とプッシュされたイエスは、裏窓から抜け出すとエレアザルの家に向かう。エレアザルの家では、ほとんどがイエスの家に押しかけているので、簡単に家に入り込める。イエスは、奥に横たえられているエレアザルの頬に両手を当て、「起きて」「目を覚まして」と囁きかける(1枚目の写真)。生き返ったエレアザルは、自分が死んだとは知らないので、目の前のイエスに、「このダビデのガキめ!」と襲いかかる。本当に粗暴な不良だ。ここに、サロメから話を聞いて駆けつけた父ヨセフがエレアザルの暴行を止める。一緒に来た 口の軽い伯父が、エレアザルの伯父に向かって、「どこで医術を習った? ブリタニアの穴居人か?」と皮肉る。伯父としては、変な「奇蹟」の噂を立てられたくないので、エレアザルが仮死状態にあったと言いたいのだ。そこに現れたエレアザルの父。息子に似て粗暴だ。「死んだんだ。そいつのせいで」。「死んでないだろ」。「そいつは 憑れてる。俺の息子を殺し、蘇らせた。悪魔だけができる」(2枚目の写真)。「生きてるのに、文句をつけるのか?」。しゃべるのは、もっぱら伯父だ。エレアザルの父が、宣告するように言う。「なぜ、ガリラヤに戻らん? お前らの道具と妻らと 呪われた子らを連れて出て行け。7年は長過ぎた。これでお終いだ。お前たちに用はない」。初めて口を開いたヨセフ。「エレアザルは生きている。神に感謝せねば」と諭すように言うと、「ちょうど、ガリラヤに戻ろうと思っていた」と言う。「何だと? こんなケチな騒ぎのせいでか?」と反発する伯父に、「違う。ヘロデ王が死んだからだ。やっと戻れる」とヨセフは答える。
  
  

家に戻ったイエス。「全部 僕のせい?」と母に訊く。「そうさ!」と冷たく言う義兄のヤコブ。彼は、イエスを嫌っている。何もかも特別待遇で、自分は無視されていると感じているからだ。「他の誰にもできないって、知ってるだろ?」(1枚目の写真)。「僕が どうやって? 言ってよ」。「そんなこと知るもんか」。一方、母マリアは、ヨセフに「触っただけだと 聴いたわ。触っただけで、死から蘇ったと。確かなのね?」と訊く。「疑ったのか?」。「いいえ、ただ… 早過ぎるので」。イエスも部屋の片隅でそれを聞いている。こうしてイエスの心にいろいろな疑問が沸いてくる。マリア:「ヘロデ王が死んだと、どうやって分かったの?」。ヨセフ:「今朝、夢を見た」。「死んだ夢、戻れという夢?」。「両方だ。ここに来たのも、夢のお告げだったろ? 正しかったと分かった。あの夜、ベツレヘムを出ていなかったら、息子は殺されていた。あれと同じ夢だった」。「放浪が定められているのね。ユダヤだから」。「心配するな。故郷に帰るのだ。ベツレヘムじゃなくてナザレへ」(2枚目の写真)。「何と言えばいいの、怯えた子に? 今日 起きたことを、どう説明するの?」。「それは、神が ご自身でなさればいい。私にはできん。お前は できるか?」。映画の中で何度もある、ヨセフとマリアの最初の会話シーンだ(2枚目の写真)。
  
  

夜、小さな船でアレクサンドリアを発つ一家。右に見えるのは、世界の七不思議の一つ、ファロス島の大灯台。船客は、ほかに老人が一人だけ。ひどい天候に、伯父が「海の空気は、象をも殺すな」と文句を言う。父:「あんた、砂漠で死にたくないって言ってたろ?」。伯父:「誰が死ぬんだ?」。もう一人の男:「我ら全員だ。だがそれは、エリコか、ベツレヘムか、他の虐殺の場だろう」。それを聞いて、イエスが口を挟む。「僕、ベツレヘムで生まれたよ」。「そうなのか? いくつだ?」。母は、慌てて「他人と話すんじゃないの」と止めるが、イエスは指で7つだと男に示す。男:「ベツレヘム生まれで 7つの男児はいない」。従妹のサロメ:「どうして?」。「ヘロデが やりやがった」。そして、「ここにおいで、坊や」とイエスを呼ぶ。イエスは、男が彫っている木のラクダを見て、思わず「今までにみた、最高のラクダだ」と口にもらす。男は、「ベツレヘムの男の子への贈り物だ」と言ってラクダの彫り物をくれる(2枚目の写真)。もらったラクダを掲げて喜ぶイエス(3枚目の写真)。
  
  
  

陸にあがった一家、ヨセフと伯父は1頭ずつロバを持ち、咳のひどい伯父はロバに乗っている。伯母に頼まれて、父に「クレオパ伯父さんが、また咳いてる」と言いに行ったイエス。父は「少し休もう」と進むのをやめるが、イエスは「僕 疲れてない。先に行っていい?」と頼む。「いいが、遠くには行くな。峠を登った所で、待ってるんだ」。母は、「ヤコブ、一緒に行って」と頼むが、「大丈夫だよ」と断られてしまう。一人で駈けていくイエス。坂を曲がったところで、正面からやってくるローマ軍とぶつかった(1・2枚目の写真)。イエスの姿を見て、停止する軍団。そこは、道の両側が岩の切通しになっている。呆然とするイエスに、横の岩の窪みに隠れていた男が、「行け! 立ち去れ!」と必死で囁きかける。イエスにとっては運の悪いことに、反逆者の一団がローマ軍を襲おうと待ち伏せていた真ん中に、イエスが入り込んだ形となってしまった。警戒するローマ軍。待ちきれなくなり、襲いかかる反逆者たち(ローマ軍の目から見た場合の表現。逆の立場から見れば、ヘロデの施政に反感を持つ人々)。乱戦となり、次々と倒される反逆者。最初にイエスに声をかけた男は、百人隊長からイエスを救おうとして瀕死の重傷を負う。逆に、反逆者に槍で刺されたローマ兵は、死んだまま馬に運ばれ、ヨセフの一行のいる所まで来て馬から投げ出される。変事のあったことを知ったヨセフとマリアは、イエスが心配になり、助けに走る。戦場では、自分を助けようとした男に近付くイエスを切り殺そうとした兵士を、百人隊長が剣で守ってくれる(3枚目の写真)。なぜ守ろうとしたのかは分からない。イエスのお陰で、奇襲に遭わなかったからか? 単に不憫に思ったからか? そこに父母が駈け付ける。そして、「私たちは無関係です、百人隊長さん。反逆者ではありません。旅人です」と必死にイエスを守る(4枚目の写真)。「次は、情けをかけぬぞ」と、隊長はイエスを自由にする。イエスと百人隊長の因縁の出会いだ。
  
  
  
  

次に、ヘロデ大王の後継者が、百人隊長と会う場面がある。場所はエルサレムの王宮。だから、相手は、大王の死後を分割統治で継いだ3人のうち、エルサレムを任されたヘロデ・アルケラオスである。ただ、同じ百人隊長が、後で、イエスの捜索のため、別の分割統治者ヘロデ・フィリッポスの領地だったナザレに行くが、これは史実とは矛盾している。さて、ヘロデ・アルケラオスは、呼びつけた隊長に向かい、「奇蹟を起こす少年がいるそうだ。アレクサンドリアでは、死んだ少年を蘇らせた。噂だが」と語りかける(写真)。そして、「そちは、余の父に仕えた。ユダヤに何年いる?」と訊く。「8年です」。「ベツレヘムに いたか?」。「おりました」。「なら、分かっていよう。前に なしたことを。余の兵は送れない。我々は2度とくり返したくない。子供に対し…」。ここで、アルケラオスは人払いし、「父が 何と言われているか知っている。余に、同じことは言わせぬ。そちの任務だ、百人隊長」と命ずる。つまり、奇蹟を起こす少年を見つけて殺せ、汚い仕事はローマ軍がしろと言う訳だ。
  

イエスは、伯父と一緒にロバに乗りながら、さっき殺された男の夢を見て、びっくりして目覚める。伯父は、この時とばかりに、「夢は大事だ。夢のお陰で、ここにいられるのだからな。考えてみろや、8年前の決定だって夢のお陰だ」。これは、ベツレヘムの幼児虐殺直前の脱出を指したもの。慌てて母が、「やめて」と止める。イエスはその先を聞きたがるが、母は答えない。伯父の咳がひどくなり、妻はイエスに「治してよ。できるんでしょ」と頼むが、イエスは「できない。するなと言われてる」と答える。「分からないわ。伯父さん、好きなんでしょ?」。イエスは、間に挟まれ困ってしまう(1枚目の写真)。ヨルダン川に着いた一家。伯父の病気はひどくなり、死を覚悟したのか、譫妄状態なのか、川辺に集まった人々に対して大声で語り始める。「主を讃えよ! 神を 称揚しようではないか!」「世俗の権力者どもではないぞ。税を取り立てるだけの王、ならず者のローマの傭兵どもめ!」。反逆的な言葉に動揺する人々。マリアは止めようとするが、伯父の妻は、「放っておいて。好きに死なせてあげて」と頼む。「シオンの主よ、永遠(とわ)に君臨されんことを! あなたの生きた流れの中で、私を洗い清めて下さい」と言うと、伯父は川に入って行く。そして、「何て 幸せなんだ。予言された処女の兄にして、約束されし者の伯父だぞ」。川に入っていったイエスが伯父を抱きしめる(2枚目の写真)。そして、「主よ、どうか伯父をお守り下さい。お願いします。やり過ぎでしょうか?」と祈る。イエスを抱いて川に潜った伯父が再び立ち上がった時、伯父は元気になっていた。失神したイエスを両腕に抱いて川から出る伯父(3枚目の写真)。周りからは、「あれを見たか? あの子は癒し手だ」「歓喜すべきだ!」という肯定的な意見と、また現れた悪霊の囁きで「きっと 悪魔だ」「奴らは、信仰を食い物にする山師だ」という否定的な意見が群集の中で飛び交う。
  
  
  

騒ぎから抜け出した一家。イエスは、母に、「怒ってる?」と訊く。父が、「怒るはずないだろ? みんな、伯父さんが好きだ」と割って入るが、「ただ、注意しないと」と釘も刺す。「僕、危険なの?」。「危険なのは、他の人間だ。近寄らないように しないと」。「僕のせい? 他の人のできないことが、できるから?」(1枚目の写真)。さらに、「川に天使たちがいた。見えなかったけど、そこにいたんだ。どうして僕には見えるの?」。父は、「そんな質問は やめておけ」と命じ、「どうして だめなの?」との問いには、「まだ、知るには早すぎるから」。「いくつになれば いいの?」。「父さんが、いいと言った時だ」。問答無用だ。父が去った後、母は、「私は、兄さんが良くなれかしと祈ったわ。で、良くなった。1日としては、それで十分」とイエスに言い聞かせる(2枚目の写真)。この噂は、たちどころに、ローマ軍の百人隊長の知るところとなった。
  
  

一家が旅をしていると、若い女性が男に襲われていた。ヨセフと伯父が助けに駆けつけると、男は女性に刃物で刺し殺された後だった。女性は召使で、さっきの男に、主人と奥さんを殺され、家に火をつけられ、奴隷として売られるところだった(1枚目の写真)。イエスは女性を可哀想に思い、「ナザレまで一緒に行くのに 要るでしょ」と言って、サンダルを渡す。女性を ここに放置せず、家族のように連れて行こうと思ったのだ。女性に、「あたし、ナザレまで 一緒に行くの?」と訊かれ、母の方を見るイエス(2枚目の写真)。母は、「ヨセフが決めるわ」と相談に行く。死体を埋めて戻って来た父に、イエスは改めて、「父さん、彼女、一緒に来ていい? 姉さんとして」と頼む(3枚目の写真)。「いいだろう」。
  
  
  

伯父と父の会話。質問をしたがるイエスを擁護するため、伯父が、「自分でやるべきなんじゃないか? 質問に 飢えてるみたいだろ?」と促す。「子供は みんなあんな風だ。我々だって 同じようなものさ」。父:「何が 言いたい?」。「あの子は、答えを欲しがってる。我々も、答えが欲しい」。「そんなもの、ない! 持ってるのは『彼』だ! 信仰の心を忘れるな。あの子は、まだ子供だ」(『彼』とは、主のこと)。「違う。わしは子供だし、あんたもそうだ。だがあの子は、ただの子供じゃない」。そして、一家は、さらにナザレへと向かう。近付くにつれ、所々、道沿いに、反逆者が磔にされている(1枚目の写真)。父は、イエスに「停まるな、歩き続けるんだ」と命じる。ちょうど、磔台が設置される場面(2枚目の写真)では、「伏し目にして。言う通りにするんだ。見るんじゃない」と言う。そこを通り過ぎると、伯父が「ナザレ、余す所わずかだ」と言い、道の正面に丘の上のナザレが見えてくる(3枚目の写真)。
  
  
  

ヨセフが実家の前まで来た時、ローマ軍の下級兵士4名が騎馬でやってくる。反逆者が残っていないかの検分だ。4人のうちの下士官級が「残ったナザレの村人どもが、1ヶ所に集まっとるな」と言うと、他の兵士が「十字架にかけよう」と楽しそうに笑う。ヨセフは、「我々は、罪を犯していません」と抗弁するが、「手ぶらでは 帰れん」という返事。そこで、伯父が、「わしが行く。連れて行け」と言い出す。「わしが川で救われたのは、このため、家族のために死ぬためだ」。ヨセフは、「違う。誰かが行かねばならんのなら、それは私だ」と言う(1枚目の写真)。3番目は、さっき救った女性。「あたしが行く。訳は 知ってるね」。その時、「殿方!」という大きな声とともに、一人の老女が家から出てきた。ヨセフの祖母だ。「お辞儀をしたくとも、腰が曲がりませんで」「甘いお菓子を 持ってきました」「最高のワインも」と兵士を歓待する(2枚目の写真)。「自分たちの仲間を磔にする軍人を歓待するのか?」と問われても、「私は、オリンパスの神々の食べ物をお出しします。お望みなら、踊り子や森のニンフも呼び出しましょう。あなた方が、私の子供たちの命を助けて下さるなら」と下手に出る。無法者や泥棒でないという証拠をと言われ、祖母は、「彼らは、7年間、アクレサンドリアにおりました。大工です。1ヶ月前に 手紙を受け取ったばかりです。ここに来ると予告しています」と言い、手紙を見せる。証拠の手紙を見、上等のワインに満足した兵士達は、何もせずに引き上げていった。その夜、家の中では食事を囲んで話がはずむ。イエスが、祖母に、「他の人たちはどこなの?」と訊くと、「丘の洞窟に隠れているのよ。トンネルにも。でも、私にはトンネルを這うのは無理」との返事(3枚目の写真)。義兄のヤコブが「ローマの奴ら、どこにでもいて堕落したユダヤの王を守ってる。戻って来ない保証あるの?」と訊くと、祖母は、「私たちの救世主が 誕生されたからよ。星が 現れている。生きておられる。そして、救って下さる」。祖母以外の大人は、全員微妙な顔をしている。だって、救世主は目の前にいて、本人はそのことを自覚していないのだから。
  
  
  

明くる日、イエスが外にいると、父がやって来る。「そこか。一人だけか」。「祈ってた。遊んでたし」。父は、イエスとともに地面に座り、話し始める(1枚目の写真)。「ここは、アレクサンドリアから遠い。寂しいか?」。「ううん。寂しいの?」。「寂しいとは思わない。だが、お前にとっては 唯一の故郷だろ。ここは静かで、孤立している」。「ここなら安全でしょ。誰も僕のやったこと知らないから」。「絶対 誰にも言うなよ。質問が一杯あるのは、知っている。だが、今は、心の中に留めておくのだ」。「どうして?」。「お前の質問は、子供から発せられる。しかし、答えは、大人へのものだ」(1枚目の写真)。ここで、父は別の例えを出す。「私が造れないのは、橋だ。架け方を知らない。だが、神ならできる。それを 信じないと」。イエスは、「もちろん。僕は、全面的に信じてる」と答え、父に抱き上げられる(2枚目の写真)。その頃、宮殿では、王が百人隊長を呼び出し、「少年は どこだ?」と叱る。「イスラエル中の7歳の子など、調べられません」。「7歳すべてなど 求めておらん。1人の7歳でよい。1人だ」。そう督促した後で、「今日来た男が、ベツレヘムで生まれた少年の話をした。探している『1人』の噂を聴いたそうだ」と打ち明ける。「その男は、どこに?」。「磔にしてやった。近くの道にいる。まだ生きておろう」。実に残虐な王だ。隊長は磔にされた男を探し出すと、「その少年は、どこに向かってた?」と訊く。男は、苦しみを早く終わらせることを条件に、「北だ。それしか覚えとらん。どこか小さな町」と話す。そして、「少年に、ラクダのおもちゃをやった」とも。「なぜ ヘロデの所に行った?」。「褒美だ。穢れた金だ」。確かに、自業自得だ。
  
  

父と伯父が、それぞれの息子を連れて、教育を受けさせようと、村のラビを訪れる。ラビは2人を見て、「ヤコブは知っておる。そなたが養子にした いとこじゃったな。この子は誰じゃ?」。「息子です。ヨセフの子イエス」。「そなたの婚約のことは、皆が覚えておる。他のことも 覚えておるぞ。婚約の日の朝、若きマリアが家から出てきて天使がどうのこうのと叫び、村を混乱させたことも」。それから、ラビはイエスに質問をする。「なぜ、フェニキア人はサムソンの髪を切ったのじゃ?」。「お許しを、ラビ。でも、フェニキア人じゃありません。力を弱めるため、ペリシテ人が髪を切ったのです」。イエスは、ラビの引っ掛け問題にすらすらと答える。「どこで、エイシャは火の戦車から連れ去られたじゃ?」。「連れ去られたのは、エリヤです。エリヤは 神の御許へ」(1枚目の写真)。「エデンの園には 誰が住んでおる?」。「誰も。エデンには 誰もいません。主が、エデンの至福を世界に戻されるまで」。何にでも、すらすらと答えるイエス。父の職業にも 誇りを持っている。「主ですら、時に 大工になられます。主は、ノアに告げませんでしたか、箱舟の造り方を? ゴフェルの木を使い、タールを塗れと言われたでしょ? 他にも主は、エゼキエルに、エルサレムの幻の神殿を見せたでしょ? 門や回廊や祭壇の大きさに至るまで。それに、主が世界を創造された時、優れた職人の知識が働いたのでは? もし、主に知識がなければ、知識とは何です?」(2枚目の写真)。ラビも、たじたじだ。ラビに気に入られ、頬を撫でられるイエス(3枚目の写真)。しかし、そこから家に戻る途中で、イエスは急に高熱を出した。
  
  
  

病床のイエスを見て、マリアは「神様、どうか わが子を助けて下さい。祝福されし子に、愛と慈悲を与え、苦しみを和らげて下さい」と祈る。しかし、イエスの高熱は病気によるものではなく、悪霊のせいだった。イエスに横に立った悪霊は、「お前は 子供ではない。何者だ? なぜ、エルサレムの主の家に行かん? 答えよ!」と迫る。イエスは、「お前は 答えを知らない。何が起きているかも、知らないだろ? どうなるかも、分かっていない」と反論する(1枚目の写真)。「お前は、何者だ? 名を 言うのだ!」。いう言って、鉄をはめた指でイエスの顔に触れようとする。「僕に 触れるな! 二度と、僕に手を向けるな」。「天使の子よ、向けたらどうする? 俺が 死ぬとでも?」。悪霊は、この段階で、イエスは単なる天使が人間に懐妊させた子供だと思っている。そして、「お前の大事なエルサレムを見せてやる。過越の祝いを こうしてやる」。イエスの目に燃えるエルサレムの街が鮮烈に映る(2枚目の写真)。ひたすら、跪いて祈るイエス。「それだけか? それしかできんのか? 見張ってるぞ、天使の子。行くがいい、子供のように歩き、子供のように話し、子供のように遊べ。見張っててやる。俺には未来は分からん。だが、これは知っている。お前の母は淫婦だ。お前の父は嘘つきだ。お前の家の床は塵芥(ちりあくた)だ」(3枚目の写真)。
  
  
  

翌朝、悪霊が去ったイエスは、すっかり元気になっていた。母:「なぜ寝てないの?」。「治ったから」。「休んでないと」。「だめだよ。エルサレムの過越の祝いに行かないと」(1枚目の写真)。その言葉を受けて、父と母が論争する。母:「危険だわ。ヘロデ、ローマ軍」。父:「今は落ち着いている」。「急に言われても、準備できないわ」。「なんとかなる」。「そういうことじゃない。その気になれないの。そうすることで、どうなるか分からない。敵も いることでしょうし。残忍な敵よ。神は なぜ私を? こんなに弱いのに」。「君は、勇敢で優れた女性だ。幼い息子を、殺そうとする軍隊から、果敢に守っている。奴らこそ、君を恐れるべきだ」。「あなたこそ、重責を。私と結婚し、イエスを息子にして下さった。奇跡だわ。神のみが ご存知なのに。違うわね。私も 知っている」(2枚目の写真)。かたく抱き合う2人。ヤコブは、「選んでいただき、日々 神に感謝している」と神に語りかける。
  
  

翌早朝、一家は、エルサレムへと旅立つ。従妹のサロメは小さすぎるから、途中で拾った女性は信仰が違うので家で待っていることに。イエスが、お祖母さんに、喜び一杯の顔で別れを告げる(1枚目の写真)。朝日が昇る頃には、一行は丘の斜面を登っていた(2枚目の写真)。一方、ローマ軍の駐屯地では、先日ナザレでヨセフ達を見逃してやった兵士が、隊長の尋問を受けている。「一緒に7・8歳の少年がいたのか?」。「おりました」。「いつの話だ?」。「セプオリスでの反乱の直後です。秩序の回復中で」。「殺伐な仕事だな。秩序の回復か」。「そうです」。「その家族はどうした? 秩序を回復、したのか?」。「無実に見えました。黙認しました」。「それは、ワインをもらった 前か後か?」。何でも お見通しだ。そう皮肉を言うと、隊長は、ナザレへと急行する。祖母は、「エルサレムの過越の祝いに 発ちました」と答える。「少年も 一緒か?」。「家族には 少年がたくさんおります」と誤魔化そうとする祖母。「ベツレヘムで生まれた少年だ。7歳になる」。「私の記憶では、ベツレヘムで生まれた その歳の少年はヘロデの兵により虐殺されたはずです」。祖母が答えそうにないので、隊長はサロメを捕まえて首を絞めさせ、「子供は簡単に死ぬぞ」「何て名だ? 少年の名前を言え!」と訊く。耐えられずに「ヨセフの子イエス」と白状する祖母。それを訊き、追撃に移るローマ軍。それを見て、「ああ、何てことを?!」と泣き崩れる祖母(2枚目の写真)。イエスが、ベツレヘムの生き残りだと知り、自分が救世主を売ってしまったと悟ったのだ。
  
  
  

エルサレムに近付き、歩く人が次第に増えてくる。その中に混じって歩くイエスと義兄のヤコブ。「俺も、父さんに エルサレムの過越の祝いに行きたいと頼んだ」(その時は断られた)「お前が頼んだら、すぐ出発だ」。「初めて知ったよ」。「知らないことは、いっぱいある。大事なのは、お前一人だけなんだ」。ヤコブは子供だ。妬むのは当然だろう。「違うよ。ヤコブは、みんなに好かれてる」。「俺は 意地悪だ」。「意地悪なんかじゃない」。「そうさ。産まれた時から お前を憎んでた」(1・2枚目の写真)。「何もかも、変わったんだ。天使や3人の貴族がいた。ベツレヘムの連中も。3人の貴族が、東方からお前に会いに来た。ベツレヘムの全員が それを見に来た。3人は不思議な力を感じ、星を占った。そして、なすべきことをペルシャの王に助言した。3人は、天の偉大な星に従い、俺たちの住む家に やってきた。お前を王と呼び、お前の前に贈り物を並べた。金や他の物だ」(3枚目の写真)。初めて知った驚愕の事実。その時、父が寄って来て、話は中断する。父は、「ほら、水だ」と革の水筒を渡し、「一雨あると 涼しくなるのだが」と言って去って行く。イエスは、「なら、どうして、ベツレヘムを去ったの?」と訊くが、「もう 俺に訊くな」と断られる。でも、「話してくれて ありがとう」と感謝する(4枚目の写真)。「雨は やめとけよ。できるんだろ」。その時、急に雨が降り出す。偶然の一致だ。イエスは慌てて、「僕じゃない、やってない!」と否定する。数少ない、ユーモラスなシーンだ。
  
  
  
  

雨の中で巡礼者たちが集まって歌っていると、そこにイエスを追撃してきた隊長一行が追いつく。幸い、ヤコブが洞窟を見つけ、一家はそこに隠れ、見つからずに済んだ。隊長は群集に向かって、「ナザレの家族を捜している。7歳の少年がいる。名前は、ヨセフの子イエス。そのような家族、子供を知っていたら、告げよ。褒美をやる」と申し渡す。洞窟の中では、母が「引き返すべきよ」と主張し、父は「家には戻れない。エルサレムにいないと分かったら、奴ら、ナザレに行くぞ」と反対する。「ここに 住みましょう」。伯父は、「洞窟なんぞには 住まん!」とつっぱねる。父:「妻は正しい。行くのは無理だ」。伯父:「たかが 女だぞ」。「だが、正しい!」。そうした話を眠ったふりをして聞いていたイエス、皆が寝静まると目をぱっちり開け(1枚目の写真)、こっそりと旅支度をし、愛しげに母を見てから洞窟を出て、一人で歩み去る。月の逆光に照らされたイエスの幻想的なシーン(2枚目の写真)。イエスはそこに跪き、「天におられる主よ、どうか道をお示し下さい。僕の家族を見守り、心を静めて下さい。僕が神殿に入ったら、どうか問いに答えて下さい… 答えてよいと思われたなら。み心に従います。アーメン」。最後に見せる笑顔が とてもチャーミングだ(3枚目の写真)。一方、イエスの消えた洞窟では大騒ぎ。母:「誰か、連れ戻して」。父:「もう無理だ。ここに いよう」。しかし、2人を動かしたのは、意外にもヤコブだった。「出ってたのは当然だ! 引き返すなんて言うからだ! 答えを求めてたのに、何一つ教えなかった! だから、過越の祝いに行きたかったんだ」(4枚目の写真)。それを聞いた父は、自責の念にかられ、「あの子を見つけないと。私とマリアは先に行く。2人は、駄獣と一緒に来てくれ」と後を追おうと決心する。
  
  
  
  

単身、エルサレムの城門に到達したイエス。ロバを連れ、ナザレから来る子供連れに警戒の目を光らせるローマ兵。イエスの前に目を留めたのは、ロバを連れた男。「ロバを連れているな。名前は?」。「エリです」(1枚目の写真)。「どこから来た?」。「エリコです」。これでパス。次は、すぐ横にいるイエスだ。年齢がぴったりなので怪しい。「お前の名は?」。イエスは黙っている(2枚目の写真)。答えたくないのか、動転して答えられないのか? 「名前だ!」。その時、さっきのエリが、「口がきけません。生まれた時からです」と助けてくれる。イエスなら話せるはずなので、「行け。お前たちの神殿へ」と通行を許される。街に入ると、エリは「一人なのか?」と訊き、イエスが頷くと、「これしか あげられん」とお金を渡してくれ、「神のご加護を。見守って下さるように」と言葉をかけてくれる。「ありがとう」と感謝するイエス(3枚目の写真)。
  
  
  
  

イエスが、市場から、門をくぐって神殿前の広場に入ると、女性が抗議する声が聞こえる。「この鳥、よくないわ。変なもの売りつけて! 祭司 様は受け取って下さらなかった。傷物よ。私には、もうお金がない。交換しなさいよ」。売り手は、「とっとと 行っちまえ」と追い払おうとする。「神の神殿の前で、よく だませるわね! 捧げ物が要るのよ!」。イエスは、籠の中の鳥を心配そうに見る。女性は、「坊や、鳥 欲しくない? 傷物だけど。欲しい?」と訊く。「はい」と嬉しそうなイエス(1枚目の写真)。さっきもらったお金を渡すが、足りなかったらしく、「もう ないの?」と催促され、仕方なく大事にしていたラクダを渡す。女性は、「よくない鳥だからね」と再度断って渡すが、イエスが籠の扉を開けると、鳥は元気よく飛んでいった(2枚目の写真)。イエスがいなくなると、女性はラクダを捨ててしまう。イエスはラビに会いに行き、ヨハネとマリアが城門をくぐるが、その時、百人隊長は既に神域内にいた。そして女性が捨てたラクダを見つけてしまう(3枚目の写真)。「彼は、ここにいる。神殿の中だ」。事態は一気に動き出す。
  
  
  

神殿なのでラビは一杯いる。どのラビと話そうか捜し回るうち、イエスは一人の盲目のラビを見つけた。ラビが生徒に、「主の霊は、その者の上に留まり、理解と知恵と見識を与えるであろう」と教えている。「その者は、力強くなり…」まで話したところで、イエスが「主を知り、あがめるであろう」と唱和し、さらに、「最大の喜びは、主に従うことだから」と一人で締めくくる(1枚目の写真)。それを聴いて喜ぶラビ。「良き生徒が現れたな。素晴らしいことじゃ。さあ、お座り」と横に座らせてくれ、「言うがよい。何が知りたいのじゃ?」と訊く。イエスは、「1人の少年が、ベツレヘムの馬小屋で産まれました。東方から来た3人の博士が贈り物を持ってきました」と話し始める。「その話は よく知っておる」。「その後、その子は どうなったのですか? 誰も話しません」。これが、イエスが一番知りたかったことだ。「なぜ 知りたいのじゃ?」。「どうしても知りたいのです。そのためにナザレから来ました」。ラビは、「その三博士は、ヘロデを訪れた。ヘロデは三博士に、子供を見つけたら知らせるよう頼んだ。だが、博士たちは黙って帰国した。ヘロデは、三博士が子供を見つけたのに自分を欺いたと知って、激怒した。まさに、地獄の憤怒じゃった。夜の間に兵を送り、2歳以下のすべての男児を殺させた。生き延びなかった。誰一人。考えてみるのじゃ。兵士が幼子を虐殺する様を」。それを聞いて涙を流すイエス。すべては、自分に責任があると感じたからだ。ラビは、イエスが泣いているのを感じ、「済んだことじゃ。ずっと前の話じゃ」と慰め(2枚目の写真)、「話すべきではなかった。そなたが、優しい心の子供じゃと忘れておった」と語りかける(3枚目の写真)。そして、涙を拭く布を渡してくれる。その時、また悪霊が現れ、百人隊長に、「少年だ。ここにいる。お前のものだ。めくらのラビと一緒だ。行け」と唆す。
  
  
  

イエスは、「ありがとう、ラビ。忘れないよ」とラビを抱き締める(1枚目の写真)。百人隊長が「密かに やるのだ」とイエスに近付いて行くと、ラビが急に叫び始める。「奇蹟じゃ! 目が見える!」(2枚目の写真)。そして、「あの子はどこじゃ? どこに行った?」と捜し始める。百人隊長は、自分の目の前で起きた奇蹟に動揺する。イエスを捜す隊長の前に自ら進んで現れたイエス(3枚目の写真)。「あの子は ここにいる! さっきまで一緒じゃった。お願いじゃ、あの子を探してくれんか。ここにいたのじゃ!」と叫ぶラビの声が聞こえる。隊長はイエスに、「お前が やったのか?」の尋ねる。「そうです」。「誰なんだ?」。「前に、僕を助けましたね」(4枚目の写真)。「あの時の…」。「あなたは、ベツレヘムにもいた」。動揺する隊長(5枚目の写真)。「なぜ、それを知っている?」。周りは騒然としてきた。「彼かそうか? あの子なのか?」と問いかける群衆を追い払おうとするローマ兵。周りの喧騒と関係なく互いに見つめ合うイエスと隊長(6枚目の写真)。そこに、ヨハネとマリアが「家に連れて帰ります」と助けに入る。「ローマ人は、神殿から出て行け!」と叫ぶ群衆。イエスの純真な目線に耐えられなくなった隊長は、3人に向かって「去れ、3人とも」と言う(7枚目の写真)。後で、ヘロデに会いに行った隊長は、「死にました。私が殺しました」と嘘の報告をする。王の前から退出する隊長の腰には、イエスのラクダがぶら下げられていた。これは、彼がイエスの神性を認めた証と見てよいであろう。
  
  
  
  
  
  
  

潅木の茂み、1本の木の下で、母マリアとイエスが2人だけで座っている(1枚目の写真)。母は、イエスが知りたかったことを話し始めた。「一度しか話さないから、よく聞くのよ」「私は、いい娘だった。厳しく育てられ、ヨセフと婚約した」「ある朝、部屋中に 光が溢れた」。「白い光よ。太陽のようだけど、熱くも眩しくもないの。純粋だったわ。空気そのものが 光っているように」「姿が見えた。人より大きく、人の形をして、中には光が」「私に話しかけた。こうよ… 『喜びあれ、マリアよ、恵まれた女(ひと)。主があなたと共に』。私は 主から恵みを受け祝福されたの。私は身ごもって男の子を産む、と言われた。あなたよ」(2枚目の写真)。「イエスと名付けよとも」「男の人を知りません、と言ったわ。天使はこう言った。聖霊が私の上に到り来て聖なる者が生れるであろう、と」(3枚目の写真)。この時のアダム・グリーヴズ=ニールは、若き日のキリストならかくありなんと思わせるほど、整ったきれいな顔だ。ブロデューサーのコロンバスが「He had this photogenic sort of haunted quality, the camera loved him」と言っていたのは、このことかと納得してしまう。少し脱線したが、マリアはさらに続ける。「こう答えたわ。『私は 主のはしためです。み心のままに』」。イエスは、「ヨセフは 何て言ったの?」と訊く。「そうね、心配したわ。でも、天使が彼の元にも訪れて、すべてを告げていたの」。「じゃあ、天使が…」。「いいえ、違うわ。天使は あなたの父親ではない。神ご自身よ。神が お父様なの」。「でも、僕たちみんな 神の子だよ」。「ええ、そうよ。でも、あなたは、神の『御ひとり子』なの」「だから、死んだ小鳥が 飛ぶことができ、病気が治り、盲人が見えるようになり、エレアザルを生き返らせることができたの」「神は、あなたを賢い子供として お造りになった」「力を 見せてはだめよ。天にましますお父様から、啓示があるまでは」「神が託したのは、法学者でもラビや王でもなかった。大工のヨセフと、いいなずけの私に 託されたの… 時満ちるまで、あなたを育てよと」。木の下で母に抱かれて考えるイエス(4枚目の写真)。ここも、絵になる。
  
  
  
  

最後の独白が始まる。「エジプトを離れてから、多くのことを学んだ。今 何ができるか、すべて知っている。いつか死ぬとも、知っている」「天使が来てくれないかと、望んだこともあった。歌ってくれないかとも。夢に現れてくれないかとも」「まだ知らないことは いっぱいある。でも、これだけは知っている。僕がここにいるのは、天使を見たり、歌うのを聴くためじゃない。僕がここにいるのは、雨を降らせたり、陽を照らしたり、他の何かをするためでもない」(1・2枚目の写真)。「僕は、ここにいて、ただ生きるだけ。見て、聞いて、感じるんだ。あらゆるものを。たとえ苦しくとも」「いつの日か、ここにいる理由を 話して下さるんでしょ。いつかは、知りません。でも、あなたは知っている。当然ですよね。だって、お父様。僕は、あなたの子だから」(3枚目の写真)。先に引用した『ルカによる福音書』の第2章40、「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」の見事な映像化だ。
  
  
  

 A の先頭に戻る    の先頭に戻る         の先頭に戻る
    アメリカ の先頭に戻る           2010年代後半 の先頭に戻る

ページの先頭へ